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天国の友へ

18年前の1989年2月。



かけがえのない友人を亡くしました。享年15歳。



それは卒業式を半月前に控えた日でした。学校での学年集会でその報告が行われました。



彼は中学校時代に吹奏楽部でサックスを担当していました。とても音楽が好きで中学入学時にはサックスを絶対にやると決めていたほどでした。



当時部員数が多く、私たち新入生だけでも約50名の部員がいました。なので希望の楽器にみんなが割り振られることができない状況で、彼と私はサックスで競合。彼がサックスを必ずやるとう気構えで入学していたことも知っていたので、私はトランペットに移り活動を始めました。



中学校1年のときのある冬の日。

引退した3年生の自宅に、1年生仲間が招かれ食事会をすることになっていました。

彼と一緒に行こうと仲間で話していましたが、お母さんから「頭が痛くて、調子が悪いので今日は行けそうにない」と仰り、その食事会は彼抜きで行われました。



しかし、その後彼が学校に姿を見せることはしばらくありませんでした。



「脳腫瘍」だったのです。



あまりにもショックでした。中学校1年生で直面した「腫瘍」という言葉。しかも同い年の友人です。



彼は入院生活を強いられ、2年生になっても退院できず、手術、抗がん剤の影響が彼を変えていきました。



彼が学校に復帰してきたのは中3の4月。授業を受ける体力はありません。彼が学校に来たのはクラブに参加するため。再びサックスを吹くためです。毎日、歩くのもしんどいだろうに学校へ徒歩で登校し、クラブでサックスを吹き、また徒歩で自宅へ戻るという日々を過ごしました。帰宅は私たち男子部員と一緒でした。私たちも自転車を押しながら徒歩で帰りました。しかし、健康な自分たちと彼の歩くペースはあまりにも違います。自分たちもなるべくスピードを落としますがやはり差があります。そのたびに彼は少し急ぎ足で歩いたり、時には駆け足気味になったり、逆にこっちに気を使っていたのでしょう。しんどかったろうに…。



春が過ぎ、初夏。コンクールへ向けての本格的シーズンに突入です。

彼もコンクールメンバーとして練習に参加していました。7月初旬だったと思います。「再入院」。


クラブでは彼がコンクールに参加するのはもう難しいだろうと話し合いが行われました。

彼のポジションには1年生が入ることに。



そしてコンクール当日。コンクールのプログラムには彼の名前がメンバー表にきっちり掲載されました。みんなで練習に取り組んだ証として。



コンクールでは彼の分もがんばると誓ったものの、結果的に2点差で金賞を逃しました。

表彰式終了後、私たちの同級生たちは厚生年金会館の客席でひたすら涙を流しました。金賞が取れなかったことではなく、彼とステージに立てなかったことに。連盟の役員から早く退場するよう指示が出るまであの場にいたことは今でも忘れません。



その後、彼はもう学校に戻ってくることはありませんでした。

秋に行われる中国吹奏楽まつりで引退…。この大会も彼は板にあがることはありませんでした。



結局、私と彼は3年間、大会で一緒に演奏することはありませんでした。



引退を終え、2月。



彼は闘病生活を静かに終えることに…。

私たちに再び顔を見せることなく彼は逝ってしまいました。

15年という短い生涯。やりたいことが出来ると喜んで入学し、吹奏楽部に入部したのに、彼は1年生のときの4つのステージだけしか経験できませんでした。彼が一番、東中の吹奏楽部の中で音楽を愛していました。さぞ悔しかったに違いありません。



そして彼の葬儀の日。


「お前の分まで、音楽を続けるから…。どんなに辛くても続けるから。」そう誓い、今私は音楽をふるさとで続けています。



いま熊野町で吹奏楽が活発になってきたことを誰よりも喜んでいるのは彼かもしれません。





では。

がくちょう

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Author:がくちょう
広島県熊野町に活動拠点を置く市民吹奏楽団「熊野吹奏楽団」の音楽監督兼楽長。

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